梶原景時の”嫉妬”が怖い❗今後の大河ドラマの展開を考察!!

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大河ドラマでは梶原景時の嫉妬が話題になっていましたね!!

実は史実と大河ドラマでの梶原景時の描かれ方はかなり違います

今回はそんな梶原景時と源義経の関係性と今後の展開を予想、考察していきたいと思います。

梶原景時のプロフィール

  • 1140年生まれ
    1200年没
  • 1180年 石橋山合戦で頼朝を見逃す
  • 同年12月 頼朝に臣従
  • 1183年 上総広常を誅殺するように頼朝に命じられて実行
  • 1184年 宇治川の戦い、一の谷の戦いに参戦
  • 1185年 屋島、壇ノ浦の戦いに参戦
  • 1187年 畠山重忠に謀反の疑いがあると頼朝に報告
  • 1189年 奥州征伐参戦
  • 1192年 和田義盛から侍所別当を引き継ぐ
  • 1199年 頼朝の死後、後継者である頼家の重臣として仕える
  • 1200年 北条氏に嵌められ追放、自害

と経歴をまとめるとこんな感じですね。

御家人の中で人望の厚かった畠山重忠を謀反の疑いがあると密告して無実だったことが大きなきっかけとして

御家人の中ではかなりの嫌われ者となりあまり良く描かれることは少ないです。

しかし今回の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではかなりの人格者として描かれているので要注目ですね。

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源義経のプロフィール

こちらは悲劇のヒーローとしてかなり有名な源義経のプロフィールを見ていきましょう

  • 1159生まれ
    1189年没
  • 1180年 頼朝が挙兵したことで黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で合流
  • 1184年 宇治川の戦い、一の谷の戦いの総大将となり、義仲軍に勝利
  • 1185年 屋島、壇ノ浦の戦いで勝利
  • 同年  頼朝との対立が激化、京都から追われて、奥州へ
  • 1189年 藤原基成が義経を攻撃、義経自害

義経の経歴はざっとこんな感じですね。

頼朝と義経の対立の背景には梶原景時の存在があったのではないかと言われています

梶原景時と源義経の史実での関係性を見ていきましょう。

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梶原景時と源義経の関係性

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宇治川の戦い、一の谷の戦いで意見の対立

宇治川の戦いや一の谷の戦いで義経と景時は意見が真っ向から対立していたことがわか

っています。

一の谷の戦いでは険しい山道から馬で駆け下りるという義経の案に対して景時は反対し

て、最終的に範頼の侍大将であった土肥実平と交代するということで落ち着いたとも言

われています。

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壇ノ浦の戦いで決定的な対立

壇ノ浦の戦いで先陣を切るのは誰にするこという会議で景時は先陣を希望したところ、

総大将義経が先陣を切ることを志願したことで喧嘩となり、義経の郎党と景時親子が斬

りあう寸前までいったと言われています。

ここまで険悪な中になってしまったことが「梶原景時の讒言」に繋がり、義経が頼朝の

不満を買うことになります。

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「梶原景時の讒言」の真相

「梶原景時の讒言」では義経の悪いところを頼朝に報告したのですが、

これが本当に梶原景時が義経を嵌めた嫌なやつであるという認識は少し違うのではない

かと考えられます。

なぜなら本来ならば義経は平家を滅ぼした功労者であるにも関わらず、誰もフォローを

することなく頼朝や朝廷に嫌われていることを考えると景時以外の周りの御家人も義経

の振る舞いに対して不満を持っていたのではないかと考えるほうがしっくりきますよ

ね。

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まとめ

大河ドラマの「鎌倉殿の13人」では梶原景時がかなりの人格者とて描かれています。

「嫌われ者」の梶原景時と「悲劇のヒーロー」の源義経ではなく、

「人格者」の梶原景時と「戦は上手だが性格に難あり」の源義経という構造になってい

ることがかなり面白いと思います。

これからも要注目ですね。

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