大河ドラマで話題の武将上総介広常を佐藤浩市さんが演じられて話題になってますね❗
上総介広常は史実では1183年頃に誅殺されたと言われています。
しかしその死因については鎌倉時代の有名な歴史書「吾妻鏡」にもその部分が欠落して
います。
今回はそんな上総介広常の死因について検証していきたいと思います。
上総介広常とはどんな人?
- 出身地 上総国(現在の千葉県中部あたり)
- 生年月日:不明
- 死亡年月日:1183年12月3日(享年 不明)
- 上総国・下総国所領をもち、関東隋一の勢力を誇った有力武将。源頼朝の平氏討伐に協力するも、謀反を疑われ誅殺された
といった経歴になっています。
ではなぜ頼朝に殺されてしまったのか考察していきましょう。
上総介広常の死因は?
1183年に梶原景時によって誅殺されていますが、殺された原因は一体何だったのでしょ
うか?
彼の死の真相について迫っていきたいと思います。
日頃からの態度が横柄?
まず1つ目が日頃の態度が横柄であったと言われる説があります。
頼朝が避暑のために相模国の三浦荘を訪れた時、他の御家人が一同に馬を降りる中で広
常だけが馬を降りなかったという話があります。
また、御家人・岡崎義実が、水干という高価な装束を頼朝から賜ると
広常は
「なぜこんな見事な衣装を岡崎のような老いぼれに下すのか。この衣装は私のよ
うな武将でないと似合わない」
といって岡崎と口論になるというエピソードも残っています。
このようなエピソードが残っているように上総介広常は普段から頼朝に対して横柄な
態度を取っていたので目をつけられて殺されてしまったのかも知れません。
力をもっていることで警戒された?
上総介広常は関東の中で一番の有力武将だったと言われています。
その証拠として頼朝に協力する際、2万の兵を率いて合流したと言われています。
2万の兵を率いられるくらいですから相当な力をもっていたと考えられます。
こうしたことから頼朝に警戒されて殺されたのかも知れません。
朝廷を軽んじたという失言のせい?
広常が殺された原因として朝廷を軽んじたからだという説があります。
頼朝が後白河法皇に面会した際になぜ広常を殺したのかと問われると、
頼朝は広常が以下のような発言をしたからだと言いました
「朝廷など放っておいて、関東で勢力を広げればよいではないですか?
勢力が大きくなれば朝廷も口出しできませんよ」
朝廷が呼びかけた平家討伐に答えた頼朝の意思とは反していますね。
しかし頼朝が後白河法皇に話したこの会話は後白河法皇に対してのリップサービスだっ
たのではないかと言われています。
まとめ
このように上総介広常が殺された理由は謎に包まれていますが、私は関東一円で一番勢
力を誇っていたことが頼朝に警戒されてしまったのではないかというのが有力ではない
かと考えます。
大河ドラマではどのように描かれるのか楽しみです。
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