市川染五郎さんが木曽義高演じていることでツイッターで話題になっていますね❗
今回はそんな悲劇のプリンス木曽義高がどのような最期を遂げていくのかを解説してい
きたいと思います!!
ぜひ、この記事を読んでいってください❗
木曽義高のプロフィール
- 生誕 1173年
- 死没 1184年6月6日
- 別名 清水冠者
- 父 木曽義仲
- 母 今井兼平の妹
といった感じですね。
今井兼平というのは木曽義仲の家来の中で義仲四天王と呼ばれた重臣です。
清水冠者というのは「清水」は不明ですが、冠者は成人していない若者という意味らしいです。
人質として鎌倉に送られる
1183年に木曽義仲が平家討伐のため信濃(長野県)で挙兵して勢力を伸ばすと次第
に鎌倉にいる頼朝との対立が激しくなります。
義仲としては頼朝との対立を避けるために自分の息子である義高を人質として差し出す
ことで頼朝と和睦を成立させます。
形式的には義高を頼朝の娘である大姫と婚姻して婿入りという形を取りました。
木曽義高の最期
鎌倉へ義高が婿入りしたとき、義高11歳、大姫6歳と言われています。
大姫は義高の許嫁であることを理解していたか、そもそも6歳では婚姻関係の意味もわ
かっていないかも知れませんが2人はとても仲が良かったとも言われています。
そんな義高ですが、この後どんな悲劇的な運命を辿っていったのかを解説していきま
す。
木曽義仲と源頼朝との対立
義仲は息子の義高を人質に出して以降、勢力を拡大してついには平家から京を奪うこと
に成功します。
しかし、義仲の兵は京都で乱暴をしたことによって世論は離れていきました。
また朝廷との交渉に失敗したことで後白河法皇は源頼朝に「義仲を討て」という命令を
します。
これによって頼朝と義仲の戦争は避けられなくなっていきました。
木曽義仲戦死
後白河法皇の命令を受けた頼朝は、弟の源義経と源範頼を総大将にして京都に向けて進
軍を開始します。
1184年1月に木曽義仲は宇治川の戦いで敗れ、その後の粟津の戦いで討死してしまいます。
この出来事が義高の立場を悪くしていきました。
逃亡を試みるが…
義仲が戦死したことで義高はまず人質としての価値はなくなり、頼朝にとって邪魔な存
在になりました。
頼朝からしたら自分に復讐される可能性がありますし、生まれたばかりの息子(頼家)
に被害が被る可能性を考えたのかも知れません。
邪魔な存在である義高を消すために藤内光澄に追討の兵を出します。
許嫁である大姫や母である北条政子は密かに義高を逃がしますが、最終的に藤内光澄の
追討によって討たれてしまいます。
まとめ
大姫や北条政子が逃がすのを手伝うくらいですからかなり評判は良かったのではないか
と思われます。
そんな彼の悲劇的な死を大河ドラマでどう描いていくのかぜひ注目していきたいです
ね!!
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