「ヨルシカの斜陽の歌詞の意味が知りたい!」
このような疑問を持っている人が多いのではないでしょうか?
結論をいうと、自己肯定感を取り戻していく主人公を描いていると考えます。
今回はそんなヨルシカ斜陽に込められた意味を考察していきたいと思います。
- ヨルシカの斜陽のモチーフは?
- 歌詞に込められた深い意味は?
などの詳細を伝えていきます。
【ヨルシカ】斜陽の歌詞の意味を考察

ヨルシカの斜陽の歌詞を考察していきます。
頬色に茜さす日は柔らかに
爆ぜた斜陽に僕らは目も開かぬまま悲しくってしようがないんだ
お日様で手が濡れた
眩しくって仕方がないし
途方に暮れた帰り、落ちて行くように茜が差したから
ヨルシカ 斜陽 歌詞 – 歌詞探索【歌詞リリ】 (lyrical-nonsense.com)より引用
ここで注目したいのが「恋」という言葉が出てきていることです。
ヨルシカの曲では、恋愛の曲であっても「恋」という直接的な表現はしていませんでした。
今回の曲ではこの直接的な表現をしているのが新鮮ですね。
「悲しくってしようがないんだ」、「途方に暮れた帰り、」といったネガティブな言葉がありますね。
これはタイトルの「斜陽」の意味に掛けて、暗い道に進んでいくさまを表現していると考えられますね。
自己肯定感がないのが悲しい

もう少しで
ヨルシカ 斜陽 歌詞 – 歌詞探索【歌詞リリ】 (lyrical-nonsense.com)より引用
僕は僕を一つは愛せたのに
斜陽に気付けば目も開かぬまま
静かな夕凪の中
「僕は僕を一つは愛せたのに」という歌詞が自己肯定感がない様子を表していて悲しいですよね。
「斜陽に気付けば目も開かぬまま」で夕日の光で目が開けられないさまが、自己肯定感がない自分と向けあえず目を背けてしまうところとリンクしているみたいですよね。
なんとも切ないですね。
初めて恋と向き合う表現が美しい

悲しくってしようがないんだ
ヨルシカ 斜陽 歌詞 – 歌詞探索【歌詞リリ】 (lyrical-nonsense.com)より引用
お日様に手が触れた
とろとろと燃えるみたいに
指先ばかり焦げた
「とろとろと燃えるみたいに」や「指先ばかり焦げた」で主人公が恋に向き合う様子が描かれていると考えます。
そう考えると「お日様」は恋で、主人公は「お日さま」によって燃えるような感覚に襲われていると思います。
高く成った葡萄とは何なのか…

高く成った葡萄みたいだ
ヨルシカ 斜陽 歌詞 – 歌詞探索【歌詞リリ】 (lyrical-nonsense.com)より引用
届かないからやめて
僕は恋をしたんだろうか
あのお日様のように、
落ちていくのに理由もないのならもう
「高く成った葡萄」とは、どんな意味なのでしょうか?
私の個人的な考察だと「高く成った葡萄」は恋が実った様子や理想とする自分を表しているようですね。
根拠は「届かないからやめて」という歌詞です。
理想とする自分や恋愛が成就しないかもしれないということを「届かないからやめて」で表現していると考えるとかなりしっくりくるように思います。
恋によって自己肯定感を取り戻す

頬色に茜さす日は柔らかに
爆ぜた斜陽も僕らの道をただ照らすのならもう少しで僕は僕を一つは愛せるのに
ヨルシカ 斜陽 歌詞 – 歌詞探索【歌詞リリ】 (lyrical-nonsense.com)より引用
斜陽にはにかむ貴方が見えた
静かな夕凪の中
僕らは目も開かぬまま
「僕は僕を一つは愛せるのに」は、1番の歌詞「僕は僕を一つは愛せたのに」と対になっています。
1番のサビでは 斜陽が眩しくて貴方を見ることも出来ず責任逃れしていたことがわかります。
しかし貴方と出会って少しずつ自己肯定感を取り戻していって、ラストで「少しは愛せるのに」「はにかむ貴方が見えた」と歌っていると考えられます。
この「斜陽」は自己肯定感を取り戻した主人公の話なのかもしれませんね。
ヨルシカ「斜陽」のモチーフはこの2つの作品

ヨルシカのモチーフにはこの2つの作品が使われていると言われています。
それは
- 太宰治「斜陽」
- イソップ寓話「酢っぱい葡萄」
の2つです。
それぞれの作品のあらすじはこんな感じ
太宰治「斜陽」のあらすじ↓
破滅への衝動を持ちながらも“恋と革命のため”生きようとするかず子、麻薬中毒で破滅してゆく直治、最後の貴婦人である母、戦後に生きる己れ自身を戯画化した流行作家上原。没落貴族の家庭を舞台に、真の革命のためにはもっと美しい滅亡が必要なのだという悲壮な心情を、四人四様の滅びの姿のうちに描く。
https://www.shinchosha.co.jp/book/100602/より引用
イソップ寓話「酢っぱい葡萄」のあらすじ↓
お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていった。
すっぱい葡萄 – Wikipediaより引用
「斜陽」は没落していく様、そして「酢っぱい葡萄」は自己肯定感が低い様を描いていることがわかります。
ヨルシカの「斜陽」ではこの2つの作品の要素をうまく利用していることがわかります。
まとめ

「ヨルシカの斜陽の歌詞の意味が知りたい!」
という内容で記事を書いていきました。
結論をいうと、自己肯定感を取り戻していく主人公を描いていると考えます。
もっと深く考察していくと新たな発見があるかもしれませんね。
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